ビィエンナーレとヴェルニサージュ/船バス駅から落ちた宝石だらけの招待客/ヴェネチア

 

logo_biennale5月6日、ビィエンナーレがオープンしました。最初の3日間はヴェルニサージュ、ヴェルニチェと呼ばれて、招待客だけが中に入れる開催日です。

この数日間、ヴェネチアはビィエンナーレよりは、この招待客を観察する方が面白いくらい変わった人々が集まってきます。バポレットもこの人々でいっぱいになり、時には仕事に行く人々でさえ乗れないほどで、大変な混み方です。特別目立つ不思議な格好をしている人もいます(半分白色で半分黒色の髪を結った年配の女性とか、長い帽子をかぶって、シックな服を着て、ズボンを一方だけブーツに入れ一方は靴の上に出してる中年の髪の長い男性とか)それぞれ知り合いで誰かを見つけると、嬉しそうに近づいて、大げさに喜んでキスをしあい、どの言語を話す時も特別なシックな発音で話し始めたり、誰もお金があるのがはっきりする服装をしています。ブランド製品や宝石でいっぱいになりますが、こういうものをあまり見せることを好まないラディカルシックと言われる裕福な人々もいます。スキヤボーニ追悼は30メートルを超える大きなヨットが、所狭しと何日も前から碇泊し(こういう船がヴェネチア市に払う一晩の碇泊代は4000ユーロを超えます)どんなに大衆社会になったとはいえ、階級ははっきりと存在してると肌で認識できるのがこの時期です。

今回は、世界の貧困化が問題にされ、マルクスを開催中ずっと読み続けるというビエンナーレ、この招待客たちの存在は、特に芸術が近年面している問題を特別明らかに浮き上がらせてる感じでした。

ジャーナリスト、Nanni Delbecchiはこう書いています。「すでによく知られているのは、今日では美と醜いものを区別するのは、成り上がり金持ちと不能な専門家だけになってしまったということだ。美しいものが美ではなく、アートギャレーリ家の好きなもの、特に巨大なアートコレクター、そのファウンデーションが好むものが「アート」になった。「個人的な視点」さえすでに超えられたコンセプトになったと言っていい。気狂いでない限り、自分の家を、6っつの運河を漂流していく巨大なインスタレーションで飾ろうとはしない。気狂いか、でなければメチェナーテ(芸術庇護家)になろうと意図する狡猾な大富豪だけだ。物質的な視点から考えれば、こういう芸術はゴロバリゼーション化された今日の資本主義のイメージの反映だと言っていい。本当に実際今日、パラッツォ グラッシ、プンタデッラドガーナ、ドイツ商館など、ヴェネチアのあらゆる場所が大きなショールームになって、芸術は反資本主義を発見したのだろうか?、資本主義によって反資本主義が証明されたのだろうか?実際は最も記憶すべきパーフォーマンスは、船バス駅が、宝石と、ストラスと、スモーキングで、あんまりにもいっぱいなって、プラダ ファウンデーションの招待客が夜のラグーナに落ちて泳ぐことになってしまったことだろう。」Delbecchiはイタリアの有名な喜劇俳優、パオロ ヴィラッジョの演じる有名な主人公、*ファントッツィを引用しながら、おかしく皮肉に書いています。(新聞「Il fatto quotidiano」/「マルクスを読む都市」 Nanni Delbecchi 9-05-15 から)

このジャーナリストの見解の中には、コンテンポラリーアートが美や調和をを否定した方向に向かったところから生まれたという前提がはっきりとは示されていませんが、芸術に美を求めるのは、今日でも芸術に関する一般の人々の見解であるのは否定できないことです。コンテンポラリーアートは芸術自身をも否定したところから生まれているにもかかわらず、有名になったアート作品の金銭価値は芸術として上がっていくという矛盾を含んでいます。今日では、有名であることと芸術は同義語になってしまいました。有名になるためには多少の才能は必要ですが、金銭や権力が何よりも第一条件になってしまったのが今日の現状です。

公の資金で行われるビエンナーレ、権力につながっている人々以外は展示できないシステムになっているのもほぼ事実です。このほとんど「公」のアート、アートがアートでなくなった今でも、アートとして扱われている限りは、アートというモラルからは大きく離れてしまっているのは否定できない事実です。特に今回のようにマルクスを読み続けようとするビエンナーレ、この芸術の対面している根本的な矛盾への非難は避けえないでしょう。

 

Geoff Dyerは小説「ヴェニスで愛、ヴァラナジで死」の中で、この宝石と、ストラスと、スモーキングのビエンナーレ招待客達の、このハイクラスの人々のひもじさでいっぱいのすざまじい空洞を描いています(これを書いた本人の意思ではないかもしれませんが)。

 

*ウーゴ ファントッツィ/パオロ ヴィラッジョの演じる主人公: イタリア映画の中でもっと評価されるべきなのがイタリア喜劇映画です。19 70年代の中期からパオロ ヴィラッジョは経理士ファントッツィ(といってもウーゴ ファントッツィは単なる経理の事務員ですが)の人物の中に、イタリアの経済成長期が生んでいく矛盾を最も面白おかしく、アイロニカルに、時には、びっくりするような人間味をも込めて、演じ出します。権力(上司)に平伏すファントッツィは、もっと狡猾に権力に従う同僚の間で、この経済成長の残忍な容赦ない波に巻き込まれた不運で、不能なサラリーマンです。この経理士、ウーゴ ファントッツィのグロテスクに描かれる通俗な冒険は、ある意味でこの時期を生きた人々の集団体験といってもいいもので、単なる一時期の喜劇を超えたものがあります。また喜劇としても、ヴィラッジョの素晴らしい演技、何度見てもお腹を捩って笑える面白い映画です。

(最初の映画「ウーゴ ファントッツィ」は1975年に上映されます。)

secondo_tragico (2)

「悲劇的なファントッツィ」二部

 

 

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筆/ヴェネチア 公認ガイド 田口やよい

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