ルネッサンスの貴婦人、イザベラ デステ(ディ エステ)/マントヴァ

ルネッサンスの貴婦人、イザベラ デステ(ディ エステ)

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ティツィアーノ 「イザベラ デステ」/ウイーン kunsthistorische museum, ゲマルデガレリー

 

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イザベラ デステがもう60歳を超えた時、ティツィアーノが描いた肖像画はまだ20歳そこそこのイザベラです。イザベラの発明だともいわれる、宝石に飾られた帽子にも似た*カピリアテゥーラをつけ、金糸や銀糸で織られた豪勢な服と毛皮をまとい、きりりとした表情で前方を凝視し、そのころの肖像画の常のように4分の3の方向を向いて、この若い美しい知性的なイザベラが、巨匠ティツィアーノの手によって描かれます。たぶん、これが年取ったイザベラが後期に残したかった自分のもっとも自分らしいイメージだったに違いありません。

実際は、イザベラはこのティツィアーの絵のように美しい女性ではなかったといわれます。むしろどちらかと言えば、すでに子供の頃から肥り気味で、顔もけっして美しいとはいえなかったらしいというのが、今日のほどんどの研究家達の意見です。

しかし、1400年の終わりから1500年の初めにかけて、最もエレガントで、最も知性と教養に長け、最も恐れられた女性でした。

イザベラが歩んだ道は、そのころの女性にとっては稀なものでした。そのころほとんどの女性は、男性に(父親、兄弟、夫)支配され、王侯貴族の娘であっても、政治の一環の手段として、その運命が決定され、男性の望む場所に嫁がされて行き、夫に服従して生き、子供を産んで、名も残さず死んで行くか、財産節約のために修道院に監禁されて、親族からも忘れ去られて死んでいくのが、ほとんどの女性の運命でした。(民衆の女性の場合にはその運命はもっと悲惨なものだったことは言うまでもありません)

こんな時代に「世界のプリマドンナ」とさえいわれたイザベラの人生は興味深いものです。そのころの最も有名なアーチスト、詩人、王、貴族、法王と肩を並べて生きたのがこのイザベラ デステでした。イザベラのそばで、名前を挙げることのできるそのころの重要人物の名前はつきることがないほどです。レオナルド ダ ヴィンチ、アリオスト、ベンボ、カール5世、マンテニア、ジュリオ ロマーノ、法王レオーネ十世、カスティリオーネ…..そして、イザベラ デステは、今日では世界に散在している絵画や彫刻などの名作をコレクションしたその頃の最も教養のあるコレクター、メチェナーテ(芸術庇護者)でもありました。

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レオナルド ダ ヴィンチ        「イザベラ デステ」/パリ、ルーブル

日本でも、イザベラ デステは、塩野七生の名作、**「ルネッサンスの女達」でよく知られていますが、過去から現在にかけて世界的に有名な女性がこのイザベラ デステです。これは、一方では、イザベラ デステは一種のグラフォマニアで、今日、マントヴァ古文書庫に保存されている、イザベラが1490年から1539年までの間に、送ったり受け取った手紙だけでも、30000通になり、そのドキュメントが豊富であることも、イザベラ デステの研究が多くなされたひとつの理由だと言われています。

 

イザベラ デステは1474年にフェラーラのエステ家に生まれるます。エステ家のエルコレ1世を父に持ち、ナポリのアラゴン家のフェルディナンド王の娘、母親のエレオノーラから、王家の血を受け継ぎます。イザベラがたった6歳だった1490年に、マントヴァ侯爵、フランチェスコ ゴンザガとの婚約が両家の間で決められます。フェラーラのような小さな国は他の国との連盟なしに生存が許されませんでした。一番いい方法は血族関係を作って、他の国との絆を強めることでした。

フェラーラで、イザベラはもう幼少から奇才の少女といわれ、バティスタ グアリーニから、当時最高といいっていい教育を受けます。フェラーラ自体がそのころルネッサンス文化の中心地でした。イザベラの父のエルコレは武人でしたが、非常に教養が高く、芸術を深く愛し、保護します。特にルネッサンス風の建築に深く興味を持っていたこのドゥーカが、ビアジオ ロッセッティにフェラーラの街をルネッサンスの街に改造させます(今日このルネッサンスのフェラーラが世界遺産になっています)。両親も兄弟も音楽をたしなみ、楽器を弾くことができ、詩人達が出入りし、有名な画家や彫刻家が呼ばれ、フェラーラのこの生き生きとした環境で、この若いプリンセスは早くから、美とは何かを理解するようになります。芸術を保護するのは、そのころの王侯貴族のステイタスを証明するもので、そうした意味で芸術をほんとうは理解せず保護だけしていた王侯貴族もたくさんいましたが、エステ家は別でした。

マントヴァに嫁いだあとも、イザベラは 夫、フランチェスコとほとんど対等の関係を保ちます。すぐに情熱を持って始めたのが芸術作品のコレクションでした。マントヴァ侯爵婦人としての一つの問題はなかなか跡継ぎができないことでした。ミラノのスフォルツァ家に嫁いだ、一歳下の妹のベアトリチェはすぐ二人の男の子ができますが、イザベラは長く男の子ができず、これが二人の間のいさかいの元になったとも言われます。先に生まれた二人の女の子にはイザベラはほとんど興味も示しません。結婚十年後初めて男の子が生まれます。生涯を通じて、イザベラはこの長男フェデリコに深い愛情を注ぎます。夫、フランチェスコ ゴンザガは、そのころの小国の侯爵がよくそうだったように、他の国に呼ばれて闘う軍人でした。闘いの前には必ず病気になって起きられなくなる勇気のない軍人ではありましたが。戦いのために国を留守にすることも多く、イザベラはこうした状況の中で、夫の留守の間、国を治めることを、政治をも学んでいきます。

1400年の終わりから1500年の初めにかけて、イタリア全土(まだそのころイタリアはありませんが)は混乱の最中に落ちます。1494年から、フランスやスペインがイタリアの領地獲得のためにイタリアに侵略してきます。これを機会にヴェネツィア共和国の領地進展を遮ろうとした法王が中心になった多くの同盟が作られたり、壊されたり、同盟国が完全に入れ替わったり、特にイタリア南部に降りるためのキーポイントだったマントヴァは大国に狙われ、最も深い危機にさらされます。この混乱した戦いの間で、夫のフランチェスコがヴェネツィア共和国に捕らえられ、牢獄に入れられているとき、マンドヴァや生家のフェラーラを守るために、イザベラは冷静な判断をしつつ、時には裏切りに近いような冷酷な決定も恐れず、外交に尽くし、マントヴァの独立を守ります。その後もこの混乱の嵐の間で、綱渡りのような外交をしていき、ほとんど奇跡的にこの小さな国の独立を守り通します。このイザベラ デステの政治力は、夫フランチェスコの反感はかったとしても、世界の王侯貴族から評価され憧憬を受けたほどでした。

夫、フランチェスコ ゴンザガが1519年亡くなった後、まだ若い息子に代わって、政治を執りますが、その期間は短く、「ラ ボスケッタ」と呼ばれていた既婚の女性を愛するようになったフランチェスコは母を政治から遠のけようとします。この性格の強い、マントヴァで最もそのころ美しい女性と言われた「ラ ボスケッタ」の意図するところでした。ほとんどの宮廷生活は、フランチェスコが「ラ ボスケッタ」のために建てたパラッツォ デル テ(ジュリオ ロマーノ設計)に移動し、イザベラ デステのそばで働いてた重要な人物は「ラ ボスケッタ」の指示もあって左遷され、他の人々はイザベラに背を向けるようになります。イザベラ自身は、孤立した生活を送るようになります。

ティツィアーノ 「ゴンザガ フェデリコ2世」マドリッド プラド

ティツィアーノ  「ゴンザガ フェデリコ2世」マドリッド プラド          (イザベラの長男)

 

こんな中でイザベラは、ローマに行くことを決めます。そのころの女性はほとんど旅行などをしませんでしたが、イザベラはそのころ誰よりも旅行をした女性でした。特に古代ローマ文化を愛したイザベラにとってローマは特別憧れの愛する街でもありましたが、1525年は***ジュビレオの年でもあり、イザベラはローマ巡礼を計画しますが、これは公式な理由で、特にもう二人いるうちの一人の息子エルコレのための枢機卿の地位を獲得する目的もあって、ローマに発ちます。メディチ家出身の法王レオーネ十世がすでに過去、約束をしてくれていたこの地位を、同じメディチ家出身の現法王、クレメンテ7世なら、実現してくれるだろうという希望を持ってローマに行ったイザベラでした。法王からの返事がないまま、ローマ滞在は長引きます。その間に国際状況は急激に危機に陥ります。クレメンテ7世の不適当な政治はローマに神聖ローマ帝国皇帝、カール5世の軍を引き寄せます。1527年、ローマに滞在していたイザベラはこうして、サッコ ディ ローマ(ローマ掠奪)の最中に巻き込まれ、司令官達のコントロールを抜け出してしまったドイツ傭兵達による目も当てられないようなローマ破戒を目の前にします。このときも自分のもとに保護を頼んで逃げてきた貴族や民衆を最後まで救ったイザベラは、大器の、器量のあるパーソナリティーを見せます。このような機会でさえも、イザベラは、念願の芸術品を、混乱の中でほとんど盗みと言ってもいいような方法で集めることを忘れません。イザベラ デステのコレクション熱は執着と言ってもいいものでした。

1500年代無名画家「ゴンザガ フランチェスコ2世」ウイーン ゲマルデガレリー

1500年代無名画家「ゴンザガ フランチェスコ2世」ウイーン ゲマルデガレリー (イザベラの夫)

その後、またマントヴァに帰ったイザベラはまたその外交の力で、カール5世によってフェデリコの地位を侯爵からドゥーカの地位まで、引き上げることに成功します。数年後には、これも巧妙な手口と隙のない外交で、モンフェラート侯国の相続者、マリア パレオロゴとフェデリコの結婚を実現させ、この後「ラ ボスケッタ」は、マントヴァ宮を自分から去っていきます。イザベラの勝利と言っていい結末でした。

晩年は、そのころの女性としては初めての、イザベラ自身のために造らせた、瞑想の場所、書斎、ストゥディオロで、生涯を通じてコレクションした芸術品に囲まれて過ごします。この多大なコレクションはその後完全に散在してしまいますが、イザベラ デステが亡くなったすぐあとに作られた目録によって伝えられ、世界のいろいろな美術館で、イザベラがこのなによりも愛した作品を見ることができます。

イザベラ デステのコレクションとストゥディオロについてはまた別の機会に紹介します。

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(注)

* 実際の髪の毛や貴重な布などで作られたかつらと帽子の中間のようなもので、カールした前髪のようにも見える。自分の実際の前髪ははみだして見えるように、少し後ろの方につけられた。

**塩野七生さんの本は、ずっと昔から家にあったのですが、この歴史小説と言う形体に、疑いを持って、自分で他の本や、ドキュメントがイタリア語で何でも読めるようになるまでは、すみに放っておいた本ですが、他の多くの書籍と比べることができる今日読んでみると、その史実の正確さに打たれます。もちろん、現代人の自我を投影して描く小説という方法は歴史をゆがめて伝えるのは避けることはできませんが、情熱に満ちたこれだけの歴史小説はイタリア人も持っていません。一般の人を歴史に近づけるにはこんな情熱を持った本がたくさん他にも書かれるといいと思います。ただ塩野さんは自分でたくさんのオリジナルな書類を研究して書いたと言ってますが、イザベラ デステについてはそれこそ膨大な研究がされていて、膨大な数の本が世界で出版されていて、たぶんとくにこの歴史小説と言う形体のため、その史実の信憑性を深めるためオリジナルな書類を検証に行ったと言っているのだと思いますが、イザベラ デステは現在わざわざ昔の書類を調べにいかないと書けないような無名の人物ではないのは事実です。

***ジュビレオは、キリスト教の聖なる年で、この年にローマを巡礼し、特別の宗教儀式を行うと、罪が許されると言われ、今でもジュビレオの年には世界中から巡礼者がローマを訪れます。

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筆/ヴェネチア 公認ガイド 田口やよい

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